子どもの自己決定/自己責任を考える−「子ども主権」構築に向けて−
亀口 公一(NPO法人アジール舎)
要 旨
「子ども学」の対象である「子どもの生活世界」は、自然科学における研究対象のように数量化、定式化=モノ化できるものではない。「おとな」の研究者(例えば、ピアジェ)にとっては、研究対象の子どもは何らかの形で自分と利害関係や情緒的関係にある。厳密科学の物理学のように研究者の感性を排除し、価値観から自由で中立的であることは不可能である。したがって、「子ども学」は本質的にも現象的にも関係論であり、しかも、子どもが「社会的存在」であることを常に念頭において考察する必要がある。とりわけ、子どもの教育や医療に関わる専門家(おとな)は、科学に対してこのような健康な懐疑心をもつ謙虚さが必要であろう。
本稿では、日本の子どもの危機的状況と子どもの自己決定/自己責任のあり方について心理発達や自己形成の知見を踏まえつつ、心理社会的視点から考察する。
さらに、近代市民社会におけるもうひとつの基本的人権であると筆者が考える「子ども主権」についても言及するものである。
キーワード:自己決定/自己責任 子ども主権 子ども基本法 遺言可能年齢
パターナリズム
1.はじめに
「おとな」による「子ども研究」は、「脳研究」に似ている。「脳研究」では、研究される脳は、研究者の研究する脳がわかる範囲内でしかわからない。同様に、「子ども研究」においても、研究される「子ども」は、研究する「おとな」が理解できる範囲内でしか理解できない。つまり、「おとな」が「子ども」を理解することは、すでに「子ども」ではない「おとな」にとっては大変困難なことである。
戦後日本の発達研究では、園原太郎ら(1980)によって急速に深化した時期があった。この発達観は、従来の成熟説でも環境説でもなく、子どもの発達を「反復される経験の統合における内的矛盾の克服」として捉えるものであった。特筆すべきことは、園原らが、子どもの発達とは「以前できなかったことができるようになり、効率的効果的な行動が増大すること」ではないとし、発達の序列化や価値づけを進めることは、むしろ子どもの成長への外圧となるとすでに警鐘を鳴らしていたことである。しかし、子どもをめぐる社会情勢は、それを上回るスピードで変化してきた。最近では、医学モデルに基づく「広汎性発達障害」概念が診断名として一人歩きし、若い親の育児不安を増大している。その結果、今の日本ほど親が「子ども」を「おとな」扱いしている時代はない。若い母親や父親が、3歳児を相手に本気で「なぜ!? お友達はしっかりお話ししているのにあなたはおしゃべりできないの!?」と苛立ちを露わにしている。確かに戦後すぐに比べれば、子どもの権利は少しずつ尊重されてきたが、同時にあるべき定型発達という自己責任も背負わされているように思う。
今こそおとな社会は、「子どもの発達とは何か」を問い、現代社会における「子どもの発見」と「子どもの定義」をおとなの責任で早急に行うべきである。おそらくこの「子どもの再発見」が閉塞した社会状況にあって、まさに未来を開く鍵となるであろう。
2.日本の子ども事情
日本の子どもは本当に大切にされているのであろうか。まず、子どもに関する理解を深めるために子どもの生活世界や時代状況を俯瞰してみよう。
日本は戦後66年を経て、いよいよ本格的な少子高齢化社会を迎えている。戦後の福祉・教育諸制度も大きな社会変化によって制度疲労が生じ、時代状況に応じた基礎構造改革が叫ばれて久しい。とりわけ、3・11東日本大震災と原発事故によって顕在化した日本社会の脆弱さは、ますますその深刻さを増している。筆者がとりわけ深刻な問題と考えているのは、未だ日本の政治や社会が、子ども問題はおとな問題であると認識していない点である。
その意味では、飢餓のない平和な日本だが、今まさに子どもは受難の時代といえる。年間5万件以上の児童虐待情報が寄せられる子ども受難社会、低年齢化するイジメ社会、「発達障害」診断による育児不安の増大、孤立する若い母親、一斉授業による「一年生危機」の顕在化、思春期・青年期の心理的危機(会心、改心など宗教的覚醒であるコンバージョン体験に対する社会的対処システムの不備)など、これらの子ども問題は、決して個人的な問題ではなく、おとな社会が作り出した社会的問題にほかならない。
特に今回の原発事故では、国は当初、子どもの放射線許容量を年間20mSvに設定しようとした。子どもに対するこの年間許容線量の根拠は、おそらく病院等の放射線管理区域で定められた5年間100 mSv基準や女性放射線業務従事者に適用される3ヶ月5mSv基準から単純に算出したのであろう。この許容線量(20 mSv/年間)は、あくまでもレントゲン室等で働くおとなが労働報酬と放射線被爆のリスクとを比較して選択した結果であり、社会的に合意されたものである。しかし、妊娠中の女性放射線業務従事者の年間許容線量は、1〜2 mSvであり、子ども(胎児)の年間許容線量がそれ以下でなければならないことは明らかである。だとすれば、子どもが自己決定の結果を評価することもその責任をとることもできないにもかかわらず、国は、日本の子どもにおとなの10倍〜20倍の放射能汚染のリスクとその責任を押し付けようとしたことになる。どちらにしても今回の原発事故による長期の緩慢な放射能汚染は、子どもの未来とおとなの現在を奪うものにほかならない。
また最近、日本の1歳〜4歳の死亡率が主要14カ国のうちワースト2位であることが明らかになった。日本ではホテルのような産婦人科病院での出産がほとんどであり、周産期死亡率が限りなくゼロに近いはずなのに大変ショックなことである。本当に日本の子どもの命や権利は守られているのか心配になってくる。
さらに問題なのは、日本には未だ子どもに関する理念法がないことである。今の法律が守っているのは、あくまでも児童福祉法の「児童」や「障害児」であり、教育基本法の「学童」や「生徒」であり、少年法の「少年」である。おとな社会は、それぞれの法律が定める「子ども」を守っているにすぎないのである。つまり、“はじめに法律ありき”であって、“はじめに子どもありき”ではないのである。しかも、「子ども」の年齢は、あるときは「20歳まで(未成年)」、あるときは「12歳まで (児童)」、またあるときは「14歳まで (少年)」とバラバラに規定され、それぞれの法律と縦割り行政の中で継ぎはぎに保護されているのである。したがって、日々生き生きと生活する地域の「子ども」は、十分に守られているとは決して言えないのである。
3.「児童憲章」再考
今年は、1951年に「児童憲章」が児童憲章制定会議によって制定され、旧厚生省児童局長から各都道府県知事に通知されてから60年になる。全12項からなるこの憲章の前文には「児童は、社会の一員として重んぜられる」とあり、第4項には「すべての児童は、個性と能力に応じて教育され、社会の一員としての責任を自主的に果たすように、みちびかれる。」と謳われている。
つまり、「児童憲章」の子ども観は、「未来のよき国民」や「期待される人間像」としての「子ども」であり、あくまでも「小さな国民」、「小さな労働者」、「小さな消費者」として尊重されている。この子ども観は、おとな社会にとって都合の良いパターナリズム(家父長的温情主義)であり、現在の市場原理や競争社会においても児童福祉の根拠となって引き継がれている。もちろん、この「児童憲章」が、衣食住もままならない終戦直後においては子どもの福祉や権利擁護を推進する上で大きな力となったことは確かである。しかし、衣食住が満ち足りた現在においても、この子ども観が無自覚に子どもに社会的責任を押しつけていることも確かである。「児童憲章」に内在する歴史的な子ども観を再検討しないままに、果たして社会的弱者に寛容なインクルーシヴ社会の実現は可能であろうか。
何より、「子ども」という概念は、産業革命後の近代社会になって形成されたものであり、工場・学校・病院・刑務所という近代社会システムを支える「おとな」になるまでのモラトリアムとして現代まで機能してきた。しかし、子どもの発達研究が進めば進むほど、これまでの子ども観が如何に従属的で受動的なものであったか明らかである。子ども時代が「おとな」になるまでの準備期間であり、待ち時間であるというおとな社会の子ども観は間違っている。私たちおとなは、「児童憲章」に潜む非主体的な子ども観から早く卒業しなければならない。
4.子どもの定義
子どもとはどのような存在であろうか。今こそ、「子どもとは何か」を根本から問い直すべき時期である。まず、「子どもの年齢」については、以下の3つの観点が挙げられる。
1.生物学的な成熟度や小児科学対象年齢に基づく生物学的観点
2.社会システムの法的整合性や妥当性を補完する法・社会学的観点
3. 日常生活の親子関係や婚姻関係から生じる操作的・相対的観点
筆者は、上記の観点から総合的に判断し、「子ども」の年齢は14歳までと考えている。これは、自己決定(自己選択)が自己責任を伴うか否かの臨界期とも重なるからである。おとなの世界では、コインの裏表である自己決定/自己責任が形成されることで、意思決定(making decisions)とみなされる。意思決定とは、選択肢の中から選択を実行し、選択の結果の評価を行うことであり、当然、自己責任を伴うものである。
では、果たして子どもはいつごろから意思表示ができるようになるのであろう。発達心理学では、子どもは概ね小学校2年生(7,8歳)までは、「おとなの世界」の中で成長するとされている。小児神経科学においても、脳機能は、個人差はあるが8,9歳ごろまでに成熟するとされている。そしてその後、小学校3年生(8,9歳)以上になると子どもは子ども集団を形成し、しばらく「子どもの世界」の中で成長することになる。「子どもの世界」の中で子どもは不十分ながらも自己決定を学び、コミュニケーション能力を高めていくのである。したがって、この時期、「子どもの世界」で「イジメ−イジメラレ関係」=「自我の衝突」が顕在化してくるのも当然であろう。私たちおとなは、子どもたちの「自我の衝突」を見張るのではなく、「イジメ」の集団化によって特定の子どもが大ケガ(自傷・自死)をしないように見守らなくてはならない。
また、子ども自己決定(自己選択)が社会的責任を負うようになるのは何歳からであろうか。例えば、未成年の20歳までの子どもは、お酒を買うという自己決定(自己選択)が法律で禁止され、「飲酒に伴う健康被害は自己責任を取るから勝手でしょ。」というわけにはいかない。また、民法では、遺言可能年齢を15歳以上とし、14歳までの子どもの遺言(処分権等の社会的契約行為)も認められていない。ドナー本人の意思表示が最重要条件であった旧臓器移植法において、15歳未満の子どもの臓器提供が認められなかったのは、この遺言可能年齢がひとつの根拠となっている。ところが、昨年の改正臓器移植法によって、ドナー家族(脳死の子の遺族)の承諾により14歳までの子どもからの臓器提供が可能となった。つまり、遺言が認められない子どもの意思は、大人の場合の「臓器提供の意思の不明」と同等にみなすという実に恣意的な解釈で、旧法の年齢制限を撤廃したのである。これは、親の生殺与奪権(躾という名の虐待を含む)を暗に認めるものであり、おとな社会がおとなのエゴで子どもの権利を恣意的に左右した典型例である。今後、意思表示できない子どもや社会的弱者(障がい者など)の意思に反した臓器摘出が臓器売買を含めて行われる危険性がはるかに高まったと言わざるをえない。
そこで、筆者は、「子どもの定義」を「生活年齢が0歳〜14歳の子どもであり、親/社会が守り育てる義務を負う社会的弱者である」とした。
5.「子ども主権」とは「子ども基本法」とは
近代市民社会は、男/女のヨコ軸とおとな/子どものタテ軸とによって立体的に構成されている。しかし、とりわけ子どもの権利は、前述したごとく比較的新しい社会的概念であり、おとなの「基本的人権」の傘だけでは十分に守ることはできない。
そこで、「もうひとつの基本的人権」ともいうべき子どもに固有な「子ども主権」を提唱したい。筆者が提唱する「子ども主権」は、「自分のことは自分が決める」という「当事者主権」と志を同じくするものではあるが、「自己責任」についての捉え方が異なる。およそ40年前、重度障がい者(当事者)による自立生活運動は、施設で保護され生かされる人生を拒否し、「みずからの人生の責任ある当事者として生きる」生活を奪い返す運動として始まった。「当事者主権」はあくまでも自己決定による「自己責任」を全うする運動であった。しかし、筆者がいう「子ども主権」とは、まだ自己選択による結果を評価できない子どもが、おとなに「自己責任」を押しつけられることを拒否する権利である。従って「子ども主権」とは「自己責任なき自己決定権=意思表明権」と言える。脳死状態の子どもが「意思表示ができなくても生きようとする自己決定権」によって生きられる社会こそが、誰もが尊重される社会であることを意味している。パーソン論のように「責任無能力者(制限行為能力者)」の人格を認めない社会は、いずれ衰退していくであろう。
また、おとな社会は14歳までの子どもに契約権や処分権を与えないことで、子どもを社会的制裁や処罰から守っている。ただし、おとなは子どもが「危険を冒す権利」を奪ってはならない。この権利こそが「自己責任なき自己決定権」であり、「子ども主権」の中核だからである。
もちろん、この「子ども主権」はまだ社会的に認知されていないが、現在、国レベルでも「子育てのあり方」が再検討されている。政府は、国家戦略、行政刷新、少子化対策の各担当大臣を共同議長にして「子ども・子育て新システム検討会議」を設置している。会議は、「基本制度」、「幼保一元化」、「子ども指針(仮称)」の三つのテーマでワーキングチームをつくり、2010年3月から幼保一元化等を含む新たな次世代育成システムの検討を行っている。特に「子ども指針(仮称)」ワーキングチームでは、閣議決定された「子ども・子育てビジョン」をベースに「子どもに関する理念」と「子育てに関する理念」を検討している。ただし、この「子ども指針」検討においても、「児童憲章」が参考資料として挙げられていることは残念であるが、「子どもが主人公(チルドレン・ファースト)」や「子どもの視点の尊重」という理念が社会的に承認されるものと期待される。
このような状況の中で、筆者は改めて、国が「子ども主権」に基づく「子ども基本法」を創設し、おとな社会が一貫した理念による子ども支援を行うことを強く望むものである。
そこで、「子ども基本法」に謳うべき骨格を以下のとおり示す。
1.「子ども基本法」の対象は、14歳までのすべての子どもとする。
2. 子どもに固有な基本的人権である「子ども主権」、
即ち「自己責任なき自己決定権」を第一義的に謳う。
3. 子どもには遊ぶ権利、学ぶ権利、休む権利があることを明記する。
4. 子どもに対する養育者の「しつけ」と称する体罰や精神的虐待を
全面的に禁止する。
5.「障害児」という用語を廃し、「発達に特別なニーズをもつ子ども」
という用語に統一する。
近年、家庭・地域においては、「育てる側」と「育てられる側」の圧倒的な情報格差が生じ、親の先取りが子どもの自己防衛能力を低下させている。また、学校・施設・病院においては、社会的要請による評価、序列化が進むことでおとなと同様の注意機能やコミュニケーション能力が求められ、ますます子どもの自然な姿が奪われつつある。国は早急に「子ども基本法」に基づく「子ども省」を創設し、子どもを社会的危機から救助すべきである。
おわりに
子ども研究におけるパラダイム転換は、学問より実社会が先行しており、児童福祉法の改正を始め立法、行政のさまざまな分野で進められている。「子ども園」や「子ども手当」の導入は、子育てが親だけではなく国や社会にも責任があることを改めて認めるものである。「子ども手当」には、どのような親であれ最終受益者である子どもは平等であり、一律に支給するという理念がある。ところが、多くのおとな/政治家からは、金持ちの親にも育児放棄の親にも一律に金を渡すことは税金の無駄遣いでありバラマキであるという批判が出ている。一律支給がバラマキになるか否かはおとなの問題であって、平等に支給されるべき子どもには関係ないことである。この一見正当なバラマキ批判は、おとなの論理やご都合主義が子ども本位の平等な支援(保育、教育を含む)を相変わらず歪めている典型例である。このままではいつまでも主権者(選挙権はないが)である子どもが必要とする平等な支援が実現されないであろう。
子どもは、何よりも社会的でかつ人類の営みをつなぐ平等で普遍的存在である。子どもが特権階級として大人から隔離され保護されることは、その社会が如何に平等で成熟した社会であるかの証である。これからますます少子高齢化が進むにつれ、幼い命と「子ども主権」を全力で守れるか否かは、まさに「大人の品格」が問われることになろう。
<参考文献>
石川憲彦.2005 こども、こころ学 ジャパンマシニスト
中西正司.上野千鶴子.2003 当事者主権 岩波書店
園原太郎編.1980 認知の発達 培風館
園原太郎.岡本夏木.1979 能力の発達と人格の形成 子どもの発達と教育3 岩波書店
滝沢武久.山内光哉他.1980 ピアジェ知能の心理学 有斐閣新書 有斐閣
徳永哲也.亀口公一他.2007 福祉と人間の考え方 ナカニシヤ出版
世界保健機関(WHO).2002 ICF国際生活機能分類−国際障害分類改訂版−
中央法規
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キーワード:自己決定/自己責任 子ども主権 子ども基本法 遺言可能年齢
パターナリズム
1.はじめに
2.日本の子ども事情
4.子どもの定義
即ち「自己責任なき自己決定権」を第一義的に謳う。
全面的に禁止する。
という用語に統一する。
中央法規
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